カメラ

1年半程前から写真を撮る様になりました。

それまでは、一眼レフカメラに何となくの憧れを持ちつつも、面白いのどうかちょっと疑問でもありました。

そんな中で、初めてのボーナスが出た時に、富士フイルムデジタルカメラを買うことにしました。

その頃は登山もしていたので、山からの綺麗な景色がメインでした。自分が見た景色を後で見返すと、少しその時のことが思い出せます。特に富士山の御来光の写真は今見返しても、とても綺麗です。


少しずつデジタルカメラの楽しさが分かってきた時に、大学時代の友達に会うと、フィルムカメラを持っていました。
彼はもともと写真部でして、自分がカメラに興味を持つことに少なからず影響を与えていました。

 

そんな彼がフィルムカメラを持っていて、とにかく面白いと言います。何が面白いかと聞くと、とにかく面白いしか答えない。

 

そんな風に言われたら、気になるものですから、フィルムカメラも始めてみました。
そうすると確かに面白い。
フィルムカメラは撮影後にしばらく経ってから、現像することが多いです。

 

デジタルと違い、その場で写真の出来も気にならず、とても気楽です。
そして、撮影可能回数も自然と限られるので、あまり雑には撮らなくなります。
その為、後からその写真をなぜ撮ったかという点がより見えやすいです。
そして、予想以上に良い出来で返ってくることもしばしばあります。素直に驚きます。

これは確かに面白いなぁと思いつつ、カメラが増えている最近です。

カメラと写真

最近は肌寒く、冬を実感するばかりです。季節の変化に気付く時は急に訪れます。朝起きて、寒さに驚き、『うわっ、冬やん』とひとり思う時です。そして、風邪引くわと思って、コートを引っ張り出す、あの時です。

寒いのは辛いですが、季節が変わると空の澄み具合をはじめ、景色のあらゆる部分で、今日は昨日とは違う感じやなと思えたりするもんです。そうした違いに気付けると、ちょっと新鮮な気持ちになれます。だから、日々の生活の中で、そうした違いに細かく気付きたいですが、実際はなかなか難しい。

まず、そんなに興味を持って、周りを見てられない。というよりも、iPhoneを見てしまう。

ただ、カメラを持ち歩いてる時は、別です。

何か気になるもの/好きと思うものはないかと自然と探すことが出来るのです。そして、錯覚かもしれないですが、気付けるのです。

興味がなかった場所が、この感じは良い!に変わるのです。そして、それは風景だけでなく、友達と遊んでいる時でも、今の雰囲気は良い!に当てはまります。

また、その時には気付いていなくても、現像後の写真を見て、気付くこともあります。

そうした写真は、後で振り返って見た時にポジティブな気持ちにしてくれます。

 

 

私的写真論

昨日、何食べたっけ?と思い出せない。

それくらいに記憶力には自信がない。

お酒を飲んで、話したことなどたいてい何も残らないし、友達と楽しく話していたはずなのに、何が可笑しかったのかを後で捉え直すことも出来ない。

ただ、写真に残した光景だけはしっかり覚えている。それは、忘れた後にも繰り返し見ているだけのせいかもしれないが。

写真には記憶の保持という機能、つまりは"記録"としての役割がある。

極端な一瞬を捉えているので、誇張された美しい風景や楽しそうな友達の写真だけが残っていく。その極端な瞬間だけは濃く残り、それ以外は薄らいでいく。

その為、実際はくだらなかったとしても、そのくだらないの中にある綺麗なものを掻き集まり、後で振り返った時にとても素晴らしい時間を過ごした気にしてくれる。

〈どこかの作家もタイトルにつけていた『人生は騙し騙し』これをやっていくのに最適なのだ笑〉

写真は、後で振り返る時にはどうとでも思えるものだと気付かせてくれる。

撮るという行為自体も楽しいが、そうした意味有りげな教訓もくれる。

そんなことを思ってると、写真にはまり、カメラにどんどんつぎ込んでしまっている。

問い

感動するとはどういうことなのか?

なぜ良質なコンテンツは感動させる可能性を持っているのか?

ハブになる為にはどうすればいいか?

これまでの経験で活かせることはあるか?

これからどうすれば近づけるか?

 

なんとなくの決意

心が動かされるような作品に出会うと、誇張ではなく生きていて良かったと思える。

まだ、こんなに感動することが出来る存在が世の中にあるのであれば、生きていてもいいのではないかと思うのだ。

 

そうした出逢いのハブになり、かつクリエイターとして生み出す側にも立ちたい。

 

 

自分は、毛皮のマリーズを始めとした音楽や漫画に自分の鬱屈さを投影して解消して、時間を稼ぎ、なんとかマシな方向に逃れることが出来た。

その時にハブになってくれた存在はTSUTAYAであった。TSUTAYAがなければ、自分はとっくに駄目になっていた。

 

誰かにとっての支えとなる文化の出逢いを作る為に働く。それを志したい。

写真

写真は過激なものである。

 

局所的に見ると、それは凄く狭い極端な世界になるのではないだろうか。

戦争をしている爆撃の場や恋人がホームで抱き合っている場面を考えれば、分かりやすいだろう。

それを切り取る写真も同様である。

アーティストとは

アーティストとは何かの違和感を感じ、訴えるために作品を作っていると言えるのではないか。

 

社会を変えるひとつの方法である。

それをドランはカンヌのスピーチで言ったのだ。不可能に挑み続ける。

 

ドランは普通でないとされる人々を描き、誰が普通を決めたのだと言う。

長嶋は、女のあり方についての違和感を表す。

乳房を玉ねぎに置き換えてる写真や妊婦が裸にライダースを羽織り、中指を立て、煙草を咥えている写真は如実にそれを表していた。