暮らしと写真
奥山由之の写真展"as the call, so the echo"に行ってきた。
前回の千駄木での写真展から"暮らし"に関心を持っている様である。
日々の生活の記録としての写真を作品としていることは、広告の為の作品とは大きく違うはずである。
暮らしを写すという事は、何かしらの目的・イメージが先にある写真ではない。
まず、暮らしが先立つ。
そして、その暮らしは家周辺の自然、お店、隣人などの環境に影響を受けている。
それは、環が幾重にも広く包括している様な世界と言えるだろう。
展示の題名にあるechoとは、そうしたイメージかもしれない。
その幾重にもある背景がある為か、強固な揺らぎのなさがある。
それは、ピントがきちんと合っていない写真からも感じる。顔があまり分からない表情や立ち振る舞いでもそこにある暮らしが何となく感じる。
飲食店との運命性
美味しいお店を見つけたい…
そりぁ、同じお金を払うならば、より美味しい食事がいいのですよ。
ただし、探すのがなんと難しい。
まず、美味しさは主観的である。好みが分かれる。
その為、本当に美味しいと言われてるお店が美味しいのかに信憑性が薄い。
そして、ネットで検索しても、広告費を払ってるから、上位に位置付いているようなお店が目立つ。
じゃあ、どう探すか。
アナログに散歩するしかないでしょう。
ロマンチックに出逢うことで、このお店は美味しいはずだという期待が高まるのです。
その期待は、大幅に下回れば、不満につながりますが、ある程度は誤魔化してくれるのです。
運命的な出会いは、人を盲目にしてくれるものなのです。
僕らは何だかすぐに忘れちゃう。
みんなが綺麗な写真を撮れるようになった。
それぞれが撮った写真は、少しの孤独が積もった後に、共有される。
生活にへばりつく孤独が再び顔を出してくることに気付かないでやり過ごすために。
そうした孤独からの逃避行を見て、あぁ楽しかったな。と思うことは少ない。
それは、みんなと一緒にいる時も、孤独がへばりついたままだったからかもしれない。
しかし、今回の旅行は、じんわりと自分の中で楽しかったな。名残惜しいな。と湧き出てきた。
この気持ちは、日常の慌ただしさで希釈され、まるで無かったかのように、すぐ過ぎ去っていくだろう。
そうだとしても何とか肌触りを残しておきたいとこの文章をしたためている。
ホテルの部屋に着くと、ダブルとシングルのベッドがひとつづつ置かれていることで生じた、3人の男による熱い闘い。
そこから始まり、早朝5時まで、陣取りゲームをして、翌朝昼に起きたこと。
そして、眠い目を開けた時に感じた、薄暗い部屋に漂う前夜の楽しさの残香を忘れたくないと思っている。
美味しい食事も気持ちの良いマッサージも、再現することは出来る。きっとお金があれば。
そういう再現可能性がいつでも満ちているものでは決してない存在は、すぐには思い出せない。
思い出せないものは欲求出来ない。
僕らはなんだかすぐに忘れちゃうのだ。
ただ、思い出せる引っかかりのようなものを残しておきたい。
伊豆
久しぶりに、楽しかったなぁと、名残惜しさが尾をひく休日を過ごした。
集合時間には当然集まらないが、それが当たり前なのも相変わらずであった。そんな始まりに、心地よさがある関係は、これから出逢う人とは築き難いと思う。
危うい運転の連続に、結局ヒリゾ浜には行けなかったが、弓ヶ浜も綺麗で遠浅で、ここ数年の海でいちばんはしゃいだ気がする。
バッテリーが上がってしまった後に、助けてくれたおっちゃんはいつもそういう人なのだろうか。
下田の寿司は、金目鯛をはじめ美味しさが段違いであったが、そこの従業員の人柄も仕事というより近所のおばちゃんのように、これ美味しいんよと勧める姿が素敵だった。
こういう休日を過ごしたことを、結局は忘れてしまうのだろうけど、少しでも残せたらいいなと思うようになったのは、歳をとったからかもしれない。
写真
儚い存在としてある私が残したいのは、普遍的で、つまりは他の誰かも共有してるような『情動を捉えたもの』だと悟った。
それは、明示的でなく、言葉で表すには抜け落ちるものである気がする。
野村恵子さんの写真を見たときに、涙が溢れそうになった瞬間を自分で捉えようとしたら、そういう気がした。
東京写真美術館 Tokyo
それぞれが捉えてきた東京が、群として飾られている。それらは、ただのイメージのない言葉としての東京を、異なる存在として認識を改める契機となる。
時間軸の持った存在、自分の生活の外で生きる人々を含む存在、ミニチュアのようなおもちゃのような存在、そして死生観が孕む場所。
Tokyoというコンセプトによる企画展に寄って、自分が生きる都市に対する眼差し、考えを抱き、改めることができた。